理想の暮らしが無かった女。橋をかける

目黒通りを行き交う人々は、犬を連れていることが多い。通り過ぎる犬は、トリマーに完璧に手入れされた毛並みにリボンを付け、服まで着せられている。
何だか、七五三で無理やりに着物を着せられた子どもみたいだ。
そんなことを考えながら、私は犬を連れている女たちも眺める。
彼女たちの見た目は、もちろん完璧だ。近所のスーパーですら7センチのヒールを履いて、髪の先まで美容室から出てきたばかりのように美しくセットされている。
ほら、私は幸せでしょう?
私の暮らしが羨ましいでしょう?
計算された巻き髪から、今年の新作のハイヒールから、丁寧にカールしたまつ毛から、そんな風に言われているような気がして、私は思わず下を向いた。
地方出身の私は単に大学院が近いから、ここに住んでいるだけだ。いわゆるお金持ちが集まる、東京では誰もが憧れる街だという白金台。けれど、私はこの街が好きになれない。
目黒通りを歩く女たちの姿は、何故か、私を焦らせる。
これが幸せな暮らしなの?
これを手に入れなきゃいけないの?
そんなものいらないなんて言っても、負け惜しみにしか聞こえない。
じゃあ、一体何が欲しいの?
何が幸せな暮らしだと思うの?
そう聞かれたら答えに窮して、きっとその場から逃げ出したくなる。
だから、「あなたたちが完璧過ぎて眩しいんです」なんてふりをして、私は、いつも下を向く。下を向いて、やり過ごす。
けれど、やり過ごしたその先は?
その気持ちもまた見ないふりをしていた時に、一本の電話が来た。
「自分たちの住みたい町を、一緒に作ってみないか?」
唐突にそう話す友人は、何だかとても楽しげだった。
あまりにもわくわくしている様子に、私もつられて笑ってしまって、その場で婚約者に電話をした。
「夏に田舎町のブランド化をする仕事をするために、都会の仕事を辞めて移住した友達が、『自分たちの住みたい町を作ろう』なんて言っているんだけど」
「それ、最高に面白い!」
彼はそう言って、すぐさま町を見に行くことを決めた。そして、町に着くと、妙なくらいにまっすぐな目をした役場の人間や、楽しげに眼鏡の中の目を細めて話す私の友人とこれからのことを語り合っていた。
東京に戻ってきてから、私は白金台の街をぐるりと見回した。 illustration 七五三みたいに着飾られた犬も、誰よりも幸せという顔をして歩く女たちも、私は全然、好きじゃない。
だけど、ひとりの人間が町を変えられるわけがない。
だから、好みじゃない場所でも住むしかない。
今まで、ずっと、そう思っていた。
けれど、あの町で出会った人は、こう言っていた。
「仕事がないんじゃない。ないのは就職先だ。だったら、作ればいい」
「住みたい町がない。だったら、作ればいい」
夢みたいなことを堂々と話す人々は子どものようで、けれど、その話を聞いている時、私も幼い頃のようにわくわくしていた。
その町には私の友人の地域のブランド化を進める推進員と、博多と二拠点居住をするウェブディレクター、そしてお試しで居住するワーキングステイという企画で滞在する人々と、町に一ヶ月暮らしてレポートを提出する大学生がいた。
「ネット環境、悪過ぎ! 仕事が全然できないよ」
「だったら、うちの事務所を使えば?」
「夜になったらどこもお店、やってないんだね」
「じゃあ、うちで焼肉でもしようよ」
今まで全く違う場所で暮らしてきた人々が、すれ違うことすらなかった誰かが、この福岡最東端の田舎町でそんな風に語り合い、混じり合っていた。
そして、同じ景色を、見た。
東の空から山を越えて上がる朝日を、雲を色鮮やかに染め沈んでいく夕日を。
雲間から棚田へ梯子のように降り注ぐ光を、日毎に色を変える黄金色のイチョウと真っ赤なもみじを。
雨が降ると驚くくらいに育つ椎茸を、木に鈴なりになる柿や畑に育つ落花生やレタスを。
群れをなし空を横切る鳶の群れを、夜空を切り裂くように流れる流星を。
町は今、あの秋が幻のように静かだ。
けれど、地域のブランド化を進める事務所には新しく人が入り、いつもあちこちと交渉をしている役場の人間は、「まだまだ、これから」と自信満々に言う。
私は、これから、婚約者と二人でこの町に訪れる人の窓口になる。
まだ見ぬ誰かと同じ景色を見るために。
同じ景色を眺めた誰かに「おかえり」を言うために。
隣町とこの町の境目には、大きな橋がある。
私たちは、その内側から人々を待つ。
さぁ、もう一度、あの山からの景色を見に行こう。
理想の暮らしを、自分で作るために。
「おかえり」も「ただいま」も、誰もがいつだって言える。
街と山をつなぐ橋を、今度は私たちがかけよう。

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