借り物の人生を生きていた女。洗濯をする

例えば、世の中に役立つ仕事をして、華やかな場所にいて走り続けて、けれど、その先に何があるんだろう。
ねぇ、私の人生って一体、どこ? 
そんなこと、誰にも聞けるわけもないけれど。
難民や途上国の支援をするNPO法人に勤めていた。もちろん社会的に意義のある大切な仕事だ。上司も尊敬できる人で、東京の都心部の大きなビルの中にあるオフィスにいた。
私がいた環境は、都会で働くということにおいては最高だったと思う。
けれど、いつもどこかで、自分のものではない借り物の人生を生きている気がしていた。皆が幸せと認める人生を送るために、必死で走っているような。
楽しかった。そして、忙しかった。真夜中でも、呼び出されればすぐにタクシーに乗って、仕事に出かけた。起こる出来事に対応するために、いつも犬のように息をあえがせて走っていた。
浅い呼吸で足をもつれさせないように、必死で。
誰かの速度に置いていかれないように、焦りながら。
結婚して随分経つのに子どもに恵まれなかったのは、当然だと今なら思う。
あの頃の私は、子どもを産むことをどこかで恐れていた。この生活を手放して、その先に何があるのかがわからなかった。
借り物ではない自分の人生を生きるなどしたことがなかったから。
そんな時、夫が二ヶ月間、旅に出た。
「自分の人生だから、行ってきなよ!」
そう言って、夫を送り出して気づく。
じゃあ、私の人生って何?
彼が旅をするように、私も二ヶ月間、自分の中で旅をした。彼が旅から帰ってきてすぐに子どもを授かった。
誰かに、背中を押されているような気がした。
そして、この町の記事を見つけた。
「行こうよ! 三人で」
今度は、私が言っていた。彼と、生まれた子どもと、その町に住む姿が目の前にありありと浮ぶ。
滞在した家は山腹にあった。家の横には川が流れ、目の前には緑の棚田と、イチョウやもみじで色づく山々がある。縁側で、田んぼのあぜ道で、私たちは毎日その景色を眺めた。
洗濯なんて出来ればしたくない。週末を一日つぶす面倒なもの。
都会にいる頃は、そう思っていた。
けれど、この町で私の楽しみは洗濯だ。
彼が子どもを連れて朝の散歩に出かけていく。日差しが差し込む家で私は洗濯物を集める。
洗濯機は、家の裏の大きな柿の木が近くに生えている庭にある。洗剤を放り込み、スイッチを押して、頭上を見上げるとオレンジ色の実と薄緑の葉が日差しに照らされている。
聞こえるのは、家の横に流れる川のせせらぎと、柿の木に立ち寄る小鳥のさえずり、私たちの衣類を洗う洗濯機の音。
皆の服やタオルをよろしくね。
なぜか、洗濯機に声をかけたくなる。そんな自分が可笑しくてくすくす笑う。 挿絵 「栗を拾ってきた」
彼が両手いっぱいに殻がついたままの栗を持って帰ってきた。
「いがいが、いっぱいあったよー」
子どもが私に抱きつきながら報告する。
「じゃあ、夜は栗ご飯だね。頂いた椎茸もあるから、また七輪で焼こう」
「しちりん!」
子どもがはしゃいで言い、彼は早速、土間に炭の準備をしだした。
洗濯が終わった音がした。サンダルを履き外に出て、軒先に向かう。
ぱん、とタオルをはたく。
ぴん、と皺が伸びる。
こんな風に、洗濯物のひとつひとつを見つめることなど、今までなかった。
洗濯を終えて、私たちは山の麓にある彼が仕事場として借りている事務所に向かう。事務所の近くでしばらく子どもと遊んだ後、昼寝をしに家に戻った。
軒先にある洗濯物は既に乾き、青い空に翻っていた。ふっくらと日差しの香りを含んだシーツやタオルは、冷え込む夜に私たちを包んでくれるだろう。
夜の街を走る時、ネオンは糸を引くように流れ、視界には溢れんばかりに色とりどりの光が飛び込んでくる。
けれど、しんと静かな山腹にも、鮮やかな朝の光と漆黒の夜、四季の折々でできた、色とりどりの景色がある。
子どもを産んだら、今までやってきたことが無駄になるんじゃないか。そんな恐れは、はるか彼方に消えていた。
軒先から洗濯物を取り込みながら、私は深呼吸をする。
胸のすみずみにまで染み透るように深く息をすると、空気が虹色に見えた。

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