目の前に文字列が並ぶ男。笑顔になる

義理もあるし、世話にもなっている。今、この状態で、放り出すわけにはいかない。何よりも、今、目の前に山のように仕事が積み上がっている。
他に誰もいない。俺しか、いない。やらなきゃいけない。やるしかない。
いつも、目の前にはパソコンがクラッシュする時に出るエラーメッセージのようにそんな言葉が連なって見えた。
俺も、クラッシュしそうなのかな。
うすうす思ってはいたけれど、延々と流れる目の前の仕事に対応するだけで精一杯だった。
有名な大学の教員だと言うと、人は「すごいね、安泰だね」と賞賛し、やはり、親や親戚も喜ぶものだ。そして、気が進まない仕事をしていても、どうしてもしがらみや恩が生まれる。
その全てを投げ出すなど、自分には許せなかった。
初めての子供が生まれたのは、もともと多忙な仕事がさらに年度末で忙しさを増す頃だ。
相変わらず、仕事は激務だった。夜の九時に家に帰れるなら、まだ早い方。起きている子どもの顔を見ることなど数ヶ月経っても数える程しかない。
まるで他人のように、子どもは知らない間に、大きくなっていく。
俺は、子どもの顔すら見ることもできずに、目前に投げつけられる仕事を打ち返している。
誰もいなくなった校内で、ひたすらに書類を作っていると携帯電話が震えた。着信には、上司の名前。
「天神で飲んでいる。今から来い」
どうせ、いつもの自慢話。自分がどれだけ、出世のために働いたかを話されるだけ。そう思いながらも、ほどいていたネクタイを締め、車に乗る。
赤ら顔で酒臭いお偉いさんのご機嫌を取り、家まで送ったら時刻は0時を過ぎていた。子どもはとっくの昔に寝た時間だ。アルコールと煙草の匂いが染み込んだジャケットを脱いだら、何だか無性に泣きたくなった。
子どもに、会いたい。とりあえず、一目会えればこの状態を乗り切れる。
ある日、仕事を半ば無理やりに早く繰り上げて帰宅した。眼鏡を外して疲れた目をこすり、息を吐く。
子どもに、笑いかけてみた。
その瞬間、子どもが泣き出した。
俺の笑顔は、きっと、笑顔じゃないんだろう。
表面の皮一枚だけが引き攣れて、中身はぽかんと空洞なだけなのだろう。
放り出したくなかった。やらなきゃいけなかった。やるしかなかった。
けれど、そうしていたら、いつの間にか、一番放り出したくないことが、やりたいことが、できなくなっていた。
車で仕事場に向かおうとしたある日、激しく動悸がした。吐き気がして、動けなくなった。
俺、ついにクラッシュしたんだな。
他人事のように思って、それから、呆けて虚空を見た。
「体より大事なものなんてないから、もう辞めなよ」
そんな当たり前のことすら、誰かに言われなければ気づけなかった。 illustration 仕事を辞めるなら、都会にいなくてもいい。どこか、住みやすい場所を探そう。そう思っていた時に、山から見下ろす棚田の風景の写真を見つけた。
『この町には、力がある。だから、地域のブランド化を推進し、埋もれてしまっている町の魅力をしっかりと伝えていく仕組みを一緒に作ってくれる人を探しています』
町役場の人間が、自分の町を紹介しながらそう言っていた。
インターネット上のホームページで見ただけの、会ったことすらない人間だ。けれど、翌週には、その町に向かって車を走らせていた。携帯電話で、役場の前から彼を呼び出す。迷いのない目をして、開かない扉はなんとしてでもこじ開けるような男だった。
そして、八月にこの町で暮らし、働くことになった。
青く茂る棚田は募集記事の写真そのままで、夏の風は山の麓に広がる池や生い茂る木々の梢に冷やされて、そっと頬を撫でる。
仕事が終わる。時刻は、まだ午後五時。夕暮れ時だ。
町から山へと薄紅色の雲が広がり、東の空には白く月が出始めている。
半袖の腕に山から吹き降ろす風を感じた。腕の中には子どもがいる。山を越え、群れをなして飛ぶ鳶を見て、思わず微笑んだ。すると、子どもがはしゃいで笑った。
俺、ちゃんと笑顔かな。
思わず、子どもに問いかける。それから、答えはもう出ていると気づいた。
パソコンのエラーメッセージのような、あの文字列はもう目の前にない。
あるのは、どこまでも開けた空、青く茂る棚田、緑の山々だ。
秋には山々は赤く、棚田は金に染まるだろう。冬には白く霜が降り、山は一面白銀になる。そして、春にはまた芽吹いた緑が柔らかく山を彩るだろう。
この景色が移り変わるさまを、見てみたい、見てみよう。
やらなきゃでも、やるしかないでもない。
ましてや、放り出すわけにはいかないという義務感でもない。
ただ、目の前にある笑顔に笑い返すように、子どもとこの景色を見よう。

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